快楽エッセイ(コラム的な)

リアル女子に近づきたい vs あえて女装っぽさを楽しみたいジレンマ

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リアル女子に近づきたい vs あえて女装っぽさを楽しみたいジレンマ
女装をしていると、必ず突き当たるのがこのジレンマ。

「リアルに女子に見られたい」と「女装っぽさをあえて楽しみたい」という二つの気持ちが、僕の中では現在進行系で心の中でずっとせめぎ合う。

どっちを選んでも楽しいし、どちらを選んでも少し物足りない。だから女装を続けている限り、このジレンマからは逃れられないんのだと思う。

リアル女子に近づきたい欲望

メイクも服も研究して、肩幅や骨格をうまく隠して、できるだけ自然に。
すれ違った人に、当たり前の女子だと思われてすれ違う。女装の努力が実った瞬間でもある。

けれど現実は残酷で、いくらパス度(どれだけ女子に見えるかの指標)が上がっても、元の器量には限界がある。とびっきりの美女になれる人はごく一部で、大半は「普通の女子に近づく」あたりで落ち着く。

そして気づいてしまう。「普通の女子」として見られることが、必ずしも注目を集めるわけではない、ということに。

あえて女装っぽさを楽しむ誘惑

そこでもう一つの考え方が出てくる。
「本当は男なのに女子に見える」ことそのものが特別な魅力になる、という発想だ。

リアルな美女は世の中にごまんといる。でも「男なのに女子に見える」は希少だ。希少だからこそ「すごい!」とチヤホヤされる。

つまり、普通の女子に寄せすぎると埋もれてしまい、女装っぽさをあえて残すほど目立つ。この逆説が、女装者の心を揺さぶる。

派手なウィッグや、普段の生活では到底選ばないミニスカートや厚底ヒール。
非日常の仮装的な要素を盛り込むと、「女装しているからこそ」のキャラクター性が際立ち、むしろ自由になれる。

僕が体験したジレンマの瞬間

女装してカフェでPC作業をしていたときのこと。
黙々と画面に向かっている間は、誰も僕に興味を示さなかった。リアル女子として溶け込んで、ただの「そこにいる人」になっていた。

ところが電話がかかってきて、男の声で短く対応した途端、隣の席の若い女子たちに「めっちゃ綺麗!」「ギャップがすごい!」と散々褒められた。

その瞬間、女装としての特別さが一気に際立った。

リアル女子に近づけた自分は「空気」になり、女装っぽさを見せた途端「特別」になる。

このギャップこそ、僕にとってのジレンマそのものだった。

二つの気持ちの間で揺れる

リアル女子に近づけたときはうれしい。努力が認められた気がして、自分の中の達成感を満たしてくれる。

でも「女装だから注目される」瞬間の快感も捨てがたい。自己満足と他人からの評価。その二つの間で、心はいつも揺れている。

女装は、自己満の遊びでありながら、同時に人の視線を強く意識する行為でもある。だからこそ、このジレンマは避けられない。

落としどころは揺れそのもの

結局、このジレンマに「正解」はない。

女装は、リアルを追う楽しみと、非日常を誇張する楽しみ、その両方を味わえる稀有な趣味だ。

僕は思う。リアル女子に近づく努力をしたからこそ、あえて女装っぽさを楽しむ自由が生まれる。逆に女装っぽさを楽しんだからこそ、リアルさを追求するモチベーションが湧く。

つまり、このジレンマ自体が、女装を続ける理由であり、女装の最大の面白さなのだ。

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